フリゴン鉱山の歴史(1)
春先から近所のヤマで鉱夫として働きはじめた。
あまり知られていないのだが、というか誰も知らないと思うけど、小規模ながら清水にも鉱山があるのだ。鋳物師町とか鍛冶町といった町名があるように、この土地では昔から製鉄や鋳造、金属加工業が盛んで、今でもなんとかライトメタルKKとか△△合金、○○重金属株式会社、某銅鐵店といった大手から中小零細までの多くの製鉄工場、銅鐵問屋、鍛冶屋、鉄工所があったり、造船所があったり、フリーの鋳物師がいたりする。中でも高度資本主義の超効率化といった風潮に迎合しない一部の頑固な職人には地元の鉱物資源の需要があり、そのおかげで近所のこの鉱山も零細ではあるが辛うじて残っているらしい。えー、清水に鉱山なんてあるわけないじゃん、うそつき。などと思われてもしょうがない。誰も知らないのだから。でもね、ホントにあるんだからしょんないじゃん。
ちょうど今から300年前、宝永4年、西暦1707年12月に富士山の大噴火があった。5代将軍綱吉の治世でのことである。「綱吉はプードルとチワワが大好きだったんですよ」と日本史の授業で桜井先生が言っていたのを思い出したが、そんなことより富士山大噴火の翌年の6月、つまりちょうど299年前、おいおい299は「ちょうど」とはいわないだろ、なんて思うかもしれないが、299だとちょうど「にくくう」といった語呂合わせになって面白いじゃんね、ってそんなこともどうでもいいが、とにかくこの年、鍛冶町の鍛冶屋でたたら踏みの下働きをしていたゴン吉は、親方の申し付けで吉原まで炭を買いに行った。ゴン吉の本当の名前はフリオ・ゴンザレスなのだが、親方に「そんな長ったらしくて伴天連みたいな名前でよばれるなんざ300年早いわ」と名前を変えられてしまった。ゴン吉にはそれが悔しかった。というのも、ゴン吉なんて狐みてえじゃねぇかよ、オレはそんな狐みたいな名前はイヤだ、オレにはちゃんとフリオ・ゴンザレスってえ粋な名前があるんだ。英語的にはジュリオともいうんだぜ。それをなんなんだあのオヤジは、オレを狐みたいに呼びやがって、てめえはマントヒヒみたいな顔のくせによ。などと思っていたことも確かであるが、ゴン吉は8年前までは魚町で鮮魚の販売と仕出し、つまり魚屋を生業としていて、店は味も鮮度も腕前も評判よく、そのうえ男前だといって江尻の宿のおかみさんや朝帰りのきれいな芸妓衆、キャバ嬢などにモテモテで、ときに店先で唄ったり踊ったりすると、わぁ、きゃー、フリオちゃーん、などと黄色い声でちやほやされたりしてゴン吉は喜色満面、有頂天、ヨー、ヨー、オレってサイコ−、などと、この世の絶頂を味わっていたのである。それがなんだ、今のオレのこのざまは。なんで鍛冶屋の下働きなんかしなきゃなんねんだ。まいっちゃうよ、ギコギコたたら踏みのせいでイケメンのオレの顔も手足も煤だらけじゃねえか。なんて無様なのだ。ゴン吉は自分の運命を呪った。オレがこうなったのもすべては8年前に魚屋を辞めたからだ。いや、辞めたんじゃない。辞めざるをえなかった。否応も是非も問われることなく強制的に廃業に追いこまれ、それがために「フリオちゃーん♪」が「ゴン吉」に成り下がった。落ちぶれた。とほほ。ではなぜ魚屋が廃業に追いこまれることになったのかというと、元禄13年(1700年)7月24日、生類哀れみの令のお触れがついに活魚の売買にまで及んだからなのだ。なんてぇ世の中だよ。ふざけてやがる。
吉原で買った炭一俵を担ぎ、ゴン吉は楽しかった魚屋時代の事を思い出しながら庵原川沿いの道を下っていった。あんこらぁよかったなぁ、あんなこと、こんなこと、あったっけな。なんて。西久保の手前に丘陵があり、そのあたりまでくると、すっかり日も暮れていた。ゴン吉は諦めた。なにを?って、親方に日暮れまでに帰って来いと言われていたのだ。でももう日は暮れちゃった。それに、もう足が動かねぇ、腹も減ってるから力が出ねえ。もうだめ、へとへとだ、やってらんない。どうにでもなりやがれって丘陵の登り口で炭俵を放り、寝転がった。ゴン吉は諦めた。そう、人生のすべてを。
その時である。ごーん、ごーん。とゴン吉を呼ぶ声が聞こえたような気がした。丘陵の登り道の右側には森がひろがっており、その森の方を見遣ると、何か動いているものに気付いた。ゴン吉が目を凝らしてみると月光に照らされたその姿は狐のような猿のような生き物だった。キツネザル?それはおかしい。野生のキツネザルはマダガスカルにしかいないはずだし、それにこの時代は鎖国状態なのだから輸入もできないはずだ。でもなぁ、今の将軍はちょっと頭がどうかしちゃってるから、きゃかわいいとか言って職権を濫用して駿州に珍しい生類を集めてサファリパークみたいにしちゃおうってんじゃねえか、などと考えながらその生き物をじっと見ていた。すると、どういうわけか、その生き物が「ごーん、ごーん、こっちにおいで」と手招きしているように思えてきた。ゴン吉は、わけがわからないままその狐のような猿のような生き物によちよちと近づいていった。近づくと生き物はぴょんぴょん跳ねるように森の奥に入って行き、立ち止まるとこちらを向いて手招きしているのだ。いや実際には手招きしているのではなくて、まん丸な目が赤や青に光るだけなのだが、それがどうも「こっちにいらっしゃい」といっているようにゴン吉には思えてならないのだった。ゴン吉が近づくと生き物は逃げるように先を行って待っている。そんな感じで50メートルほど進むとその狐のような猿のような生き物はふっと消えた。消えた地点まで行ってみるとそこには岩盤の裂け目のような直径50センチほどの穴があり、中を覗くと微かに赤や黄、橙に光っているものをゴン吉はみつけた。あの生き物の目ではないかとはじめは思ったのだが、触れてみると、ゴツゴツとした手触りで、それはいろんな大きさ形の石であった。うぴょー。これはひょっとして黄金やら銅の原石なのではないか。ゴン吉は胸を踊らせた。これを売れば、巨万の富を得るだろう。そしたらオレは、鍛冶屋の下働きなんかやめて青年実業家、プール付きの豪邸を建てたりなんかして贅沢三昧、うひひひひ。すばらしい。ブラボー。ビバ、キツネザル。なんてラッキーなんだ、オレ。ってって疲れもふっとんだゴン吉は持てるだけの光る石を背負ってシャンシャンウキウキ鍛冶屋への帰途についたのであった。
というのが、今の経営者フリオ・ゴンザレス27世が語った、『フリオ・ゴンザレス鉱業』の創始者、初代フリオ・ゴンザレスが鉱山を発見した時の話である。長々と書いてしまったけれども、これでもフリオ27世の話を端折ったつもり。鉱山の発見と富士山の噴火に何らかの因果関係があるのかどうかは知らんが、ともかく、この鉱山で、鉱夫として深夜に僕は働き始めたのだ。(おそらくつづく)
あまり知られていないのだが、というか誰も知らないと思うけど、小規模ながら清水にも鉱山があるのだ。鋳物師町とか鍛冶町といった町名があるように、この土地では昔から製鉄や鋳造、金属加工業が盛んで、今でもなんとかライトメタルKKとか△△合金、○○重金属株式会社、某銅鐵店といった大手から中小零細までの多くの製鉄工場、銅鐵問屋、鍛冶屋、鉄工所があったり、造船所があったり、フリーの鋳物師がいたりする。中でも高度資本主義の超効率化といった風潮に迎合しない一部の頑固な職人には地元の鉱物資源の需要があり、そのおかげで近所のこの鉱山も零細ではあるが辛うじて残っているらしい。えー、清水に鉱山なんてあるわけないじゃん、うそつき。などと思われてもしょうがない。誰も知らないのだから。でもね、ホントにあるんだからしょんないじゃん。
ちょうど今から300年前、宝永4年、西暦1707年12月に富士山の大噴火があった。5代将軍綱吉の治世でのことである。「綱吉はプードルとチワワが大好きだったんですよ」と日本史の授業で桜井先生が言っていたのを思い出したが、そんなことより富士山大噴火の翌年の6月、つまりちょうど299年前、おいおい299は「ちょうど」とはいわないだろ、なんて思うかもしれないが、299だとちょうど「にくくう」といった語呂合わせになって面白いじゃんね、ってそんなこともどうでもいいが、とにかくこの年、鍛冶町の鍛冶屋でたたら踏みの下働きをしていたゴン吉は、親方の申し付けで吉原まで炭を買いに行った。ゴン吉の本当の名前はフリオ・ゴンザレスなのだが、親方に「そんな長ったらしくて伴天連みたいな名前でよばれるなんざ300年早いわ」と名前を変えられてしまった。ゴン吉にはそれが悔しかった。というのも、ゴン吉なんて狐みてえじゃねぇかよ、オレはそんな狐みたいな名前はイヤだ、オレにはちゃんとフリオ・ゴンザレスってえ粋な名前があるんだ。英語的にはジュリオともいうんだぜ。それをなんなんだあのオヤジは、オレを狐みたいに呼びやがって、てめえはマントヒヒみたいな顔のくせによ。などと思っていたことも確かであるが、ゴン吉は8年前までは魚町で鮮魚の販売と仕出し、つまり魚屋を生業としていて、店は味も鮮度も腕前も評判よく、そのうえ男前だといって江尻の宿のおかみさんや朝帰りのきれいな芸妓衆、キャバ嬢などにモテモテで、ときに店先で唄ったり踊ったりすると、わぁ、きゃー、フリオちゃーん、などと黄色い声でちやほやされたりしてゴン吉は喜色満面、有頂天、ヨー、ヨー、オレってサイコ−、などと、この世の絶頂を味わっていたのである。それがなんだ、今のオレのこのざまは。なんで鍛冶屋の下働きなんかしなきゃなんねんだ。まいっちゃうよ、ギコギコたたら踏みのせいでイケメンのオレの顔も手足も煤だらけじゃねえか。なんて無様なのだ。ゴン吉は自分の運命を呪った。オレがこうなったのもすべては8年前に魚屋を辞めたからだ。いや、辞めたんじゃない。辞めざるをえなかった。否応も是非も問われることなく強制的に廃業に追いこまれ、それがために「フリオちゃーん♪」が「ゴン吉」に成り下がった。落ちぶれた。とほほ。ではなぜ魚屋が廃業に追いこまれることになったのかというと、元禄13年(1700年)7月24日、生類哀れみの令のお触れがついに活魚の売買にまで及んだからなのだ。なんてぇ世の中だよ。ふざけてやがる。
吉原で買った炭一俵を担ぎ、ゴン吉は楽しかった魚屋時代の事を思い出しながら庵原川沿いの道を下っていった。あんこらぁよかったなぁ、あんなこと、こんなこと、あったっけな。なんて。西久保の手前に丘陵があり、そのあたりまでくると、すっかり日も暮れていた。ゴン吉は諦めた。なにを?って、親方に日暮れまでに帰って来いと言われていたのだ。でももう日は暮れちゃった。それに、もう足が動かねぇ、腹も減ってるから力が出ねえ。もうだめ、へとへとだ、やってらんない。どうにでもなりやがれって丘陵の登り口で炭俵を放り、寝転がった。ゴン吉は諦めた。そう、人生のすべてを。
その時である。ごーん、ごーん。とゴン吉を呼ぶ声が聞こえたような気がした。丘陵の登り道の右側には森がひろがっており、その森の方を見遣ると、何か動いているものに気付いた。ゴン吉が目を凝らしてみると月光に照らされたその姿は狐のような猿のような生き物だった。キツネザル?それはおかしい。野生のキツネザルはマダガスカルにしかいないはずだし、それにこの時代は鎖国状態なのだから輸入もできないはずだ。でもなぁ、今の将軍はちょっと頭がどうかしちゃってるから、きゃかわいいとか言って職権を濫用して駿州に珍しい生類を集めてサファリパークみたいにしちゃおうってんじゃねえか、などと考えながらその生き物をじっと見ていた。すると、どういうわけか、その生き物が「ごーん、ごーん、こっちにおいで」と手招きしているように思えてきた。ゴン吉は、わけがわからないままその狐のような猿のような生き物によちよちと近づいていった。近づくと生き物はぴょんぴょん跳ねるように森の奥に入って行き、立ち止まるとこちらを向いて手招きしているのだ。いや実際には手招きしているのではなくて、まん丸な目が赤や青に光るだけなのだが、それがどうも「こっちにいらっしゃい」といっているようにゴン吉には思えてならないのだった。ゴン吉が近づくと生き物は逃げるように先を行って待っている。そんな感じで50メートルほど進むとその狐のような猿のような生き物はふっと消えた。消えた地点まで行ってみるとそこには岩盤の裂け目のような直径50センチほどの穴があり、中を覗くと微かに赤や黄、橙に光っているものをゴン吉はみつけた。あの生き物の目ではないかとはじめは思ったのだが、触れてみると、ゴツゴツとした手触りで、それはいろんな大きさ形の石であった。うぴょー。これはひょっとして黄金やら銅の原石なのではないか。ゴン吉は胸を踊らせた。これを売れば、巨万の富を得るだろう。そしたらオレは、鍛冶屋の下働きなんかやめて青年実業家、プール付きの豪邸を建てたりなんかして贅沢三昧、うひひひひ。すばらしい。ブラボー。ビバ、キツネザル。なんてラッキーなんだ、オレ。ってって疲れもふっとんだゴン吉は持てるだけの光る石を背負ってシャンシャンウキウキ鍛冶屋への帰途についたのであった。
というのが、今の経営者フリオ・ゴンザレス27世が語った、『フリオ・ゴンザレス鉱業』の創始者、初代フリオ・ゴンザレスが鉱山を発見した時の話である。長々と書いてしまったけれども、これでもフリオ27世の話を端折ったつもり。鉱山の発見と富士山の噴火に何らかの因果関係があるのかどうかは知らんが、ともかく、この鉱山で、鉱夫として深夜に僕は働き始めたのだ。(おそらくつづく)
- 2007.06.16 Saturday
- 棄景@旧清水市
- 19:25
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- by kuriden#3